narative.

物語。日常。代わり映えのしないもの。

眼鏡がなくてもモノはみえる。

昔は眼鏡にとてもこだわっていた。「なくても別にいいじゃん」とよく人に言われた。私もなぜあそこまで眼鏡にばかり情熱を傾けていたのだろう。わからない。わからないが、眼鏡越しに見る景色や人の顔、故郷の高い空、花や山々……とても美しく感じられた。裸眼で見る以上に、日々の全てが輝いて、華やいで見えた。私は眼鏡でもっとたくさんの景色を見たいと、脳裏に焼き付けたいと夢中になっていた。

 

なにかの節に上京して、寂れた田舎を離れた。恐らく初めて、ただのひとりで暮らして、恐らく初めて、まともに仕事をして、恐らく初めて、大いに挫折をした。2年と半年いた。その間私はずっと裸眼で過ごした。ここに眼鏡があれば。そう思ったことは最初こそ何度もあれど、そのうち、ただ忙しく眼前を通り過ぎていく日常の速度に、そこから起こる風に、私の情熱は消えていった。8帖のワンルームから窓の外には、ちょうどタワーマンションがある。あそこの一番上からはどんな景色が広がるのだろう。考えてみても思い浮かばない。ただ私の心配事は明日の食事であったり、仕事のことであったり、支払いのことであったりする。ただ私は、その頃には眼鏡のことはすっかり忘れていた。

 

そのうちにうらぶれた故郷に戻ってきた。大変に疲れてしまって、もう私には“ひとり”であることが耐え難くなってしまった。しかし、私がいろいろな可能性を捨てて(あるいは求めて)故郷から出た2年と半年で全てが変わっている。なにごともうまくいかない。次第に目がどんどん“よく”なっていった。霞のようなものごとには考えが及ばなくなっていき、裸眼で“しか”私はモノを見ることが難しくなっていた。空想にピントは合わず、現実にしか私は焦点を合わせられない。世界はすっかり彩を変えて、沈んだ調子で語りかける――もはや自分には、眼鏡をかけたとして度が合うものはもうこの世にない。そうした暗い確信があった。私は一生輝きのない世界を生きるのかもしれないな、とぼんやり考えていた。ここにはなんと書いてあるのだろう。ここにはだれがいたのだろう。ここにはなにがあったのだろう。わからない。わからない。それがただ辛い。

 

「よかったら、売ろうか、それ」

眼鏡を貸すから、代わりにちょっと仕事をしてくれないか。そう言われ、多少はモノをよく見た数日後にそう言われた。

「分割でいいよ。生活苦しいだろうから、年金が出る月だけ支払ってくれればいい」

ラインの履歴を見ながら、握りしめている眼鏡をさすってみた。うすぼんやりとその輪郭がわかる。手の先から、冬の気温で冷えたアルミの質感がつたわる。どう返事をしたものだろう。私にはもう眼鏡はいらないのだが――

 

次の瞬間には、私はバイクに乗って少し遠くへ出かけていた。以前からもっとよく見たいと思っていたあの場所へ。まだ見たことのないあの場所へ。眼鏡で見たことのないあの場所へ。

何もありはしないと思っていた故郷の、下から眺める山々の岩肌。悠然と私の前に立ち上がるその美しさに、しばらくぼうっとして、私は眼鏡を構えて、しっかり“定着”させた。

 

世界に彩が戻ってきた。火が灯った。

眼鏡はなくても生きてはいけるが、あったほうが、やはり、世界は輝いて見える。

 

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