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narative.

物語。日常。代わり映えのしないもの。

大人になると賢くなるのだろうか。

私は性格診断が好きだ。定期的にやっている。エゴグラムだのエニアグラムだの、最近だとエムグラムというものが流行っているみたい。なにが楽しいのかは本人でも言語化しづらいのだが、楽しいからやるというより別の目的がある。性格診断はやる時期によって結果が変わるので、その時々で「今の私はこういう傾向なのだな」と把握して普段の行動に気をつけたりする指針にしている。そう、性格診断は結果が変わる。これは向こうも想定しており場合によっては明言もしている。性格とは不変ではない。でなければ私たちは今でもおむつを穿いているはずなのだ。だから診断内の質問への答えも時々で変わる。

だが、そんな性格診断の質問でいつ頃からか答えが固定化されてしまったものがある。「自分の存在の意味について深く思索したりする時があるか」。こういった質問。

10代と20代少しなら、この問いには間違いなく「かなりそう思う」というチェックボックスをつけた。ところがいつの頃からか、この問いには決まって「まったくそうは思わない」と答えるようになってしまった。

「自分はなぜ存在しているのか」という問い。形而上学的には『自我体験』と呼ばれるこれは世界的に共通の思考で、概ね10代前半から後半にかけて自然発生し、そして消滅していく。おそらく誰もが考えた『答えのない問題』。考える内に「くだらない」と一蹴して人は大人になっていく。こうした答えのないものに時間を労するのは、一般的に子どものやることと見なされる。そうした体験を経て、人間は社会的動物として成熟し社会生活に適応した成人になっていくのだ。

私はこうした問いを20代になってもずっと行っていた。暇があればこういったことを延々と考えていた。生きるということは、こうした問いを自分に出して、僅かばかりの気づきという鉱脈を掘り当てることだと思っていた。まだまだ子どもであり、未熟だったからだ。今20代後半に差し掛かり、一般よりもずっと遅くではあるがようやくこうした問いをしなくなった。“全く”やらなくなった。今において私の生活とは何か?――人並みに働くこと、生計を維持すること、社会に位置すること。

SNSをやっていると、年下の人たちがこうした命題に取り組んでいる様子が時折うかがえる。「こうした時代もあったなあ」と自らを振り返ったりもする。表現者を目指す者であれば「時代に先駆けた表現とは」とか「本質とはなにか」とかなにがしか。私も色々と暗中模索した。今はしていない。全くしていない。生きることになんら関係のないからだ。生計維持に直結しないからだ。

そう、私は今、ほんとうに、ものを考えていない。「自分はなぜ存在しているのか」、そんなことはくだらない問いだからだ。実学ではない。「表現とはなにか」、日常に埋没している人間にとってはなんの慰みにもならない。確かにそうだ。私はこれらを考えないことで大人になった。社会的になった。今これらを考えようとしても、薄ぼんやりとしてうまくまとまらない。高度な数式を見ているような気分になる。

私は大人になった。賢くなったはずなのだ。こんな問いはしなくてもいい。はずなのだ。なんだろう、この言いようのない悲しみは。

賢くなった。そうだろう。子どもではなくなった。そうだろう。社会人。そうなのだろう。無駄なことを考えず、社会に生きることを優先する。私たちは高等遊民ではない。生きなければならない。そのために考える。“実用的なこと”を。だから、賢いのだ。それが大人になることなのだ。レゴブロックで自由にものを作るのは子どもの遊びだ。大人は決まったものごとを決まったように動かさなければならない。なぜなら、賢いからだ。

たまに、賢くないままで大人になった人間が、新しい決まったものごとを作る。彼らは賢くないから疎まれたり、陰口を言われたりする。「好きなことをやってお金を稼いでいる」と言われたりする。賢くなると、好きでもないことを義務感や生活のために仕方なくやる必要性が生じる。それが賢いやり方だからだ。

『人間は考える葦である』。葦のような脆弱な存在でも考えるという大いなる能力がある、だから人間は素晴らしい。私は今葦ではない。大人だ。