narative.

物語。日常。代わり映えのしないもの。

すぐ前の家にいる犬は恐らく頭が悪い。

眼前にある家の犬は、恐らくひどく頭が悪い。私が生まれの地にあるこの2Kの借家に越してきて四ヶ月になる。2Kだが4帖と6帖の部屋の敷居はぶち抜かれており実質1LDKと化している。そこから防犯性が全く感じられないカナダ人辺りはきっと窮屈に感じるだろう玄関を開けると、前の家にいる犬が窓越しに駆け寄ってくる。距離にして1m半ほどだろうか。レースのカーテン越しに私を視認すると、吠える。彼にとっては私はまだまだ新顔で、すぐ近くの家の玄関を漁る不届き者なのだ。しょうがない。そう言えば挨拶に伺ったとき玄関には『猛犬注意』の札があった。そう飼育されているのだろう。そのうち顔を覚えてくれる。出不精の私でも玄関は必ず開ける、そして彼が必ず吠える。毎日挨拶していけば顔なじみになれるはずだ。

と考えていた。しかし4ヶ月以上経つ今日でもあの犬は未だに私に向かって吠える。特に玄関でごまついているとかなりやかましい。時折吠えないときがある。じいっと私の顔を見るのである。「この人はたしかに見たことがあるのだが、はて誰だろう」というような目で私を見て、そして吠える。とりあえず吠える。靴を履いているときに吠える。郵便物を取るときに吠える。鍵を開けているときに吠える。もちろん閉めるときも吠える。友人を迎え入れると吠える。出かけると吠える。駄目だ。こいつは私を覚えていない。覚える気がないのかもしれない。もしかしたらあまり考えたくないことだが、私は相当に怪しい風貌なのかもしれない。番犬として飼われている彼にとって我慢ならないほど、4ヶ月毎日顔を合わせても吠えずにはいられないほど不審者としての風格があるのかもしれない。しかしそれにしてもこいつは誰にでも吠える。郵便屋が来たら吠える。荷物が届いたら吠える。夜の帳何が見えているのか知らないが吠える。郵便屋なんて私が入居する以前から恐らく何度も何度もここに来ているはずだ。服装の特徴ぐらい普通の犬だったら覚えるんじゃないのか。

そうだ、こいつはもしかしてアホなんじゃないのだろうか。たぶん頭が悪いのだ。これから先もずっと彼の吠え声を聞かされるのだろうか。

私なりに仲良くなろうとはした。窓越しに面白いポーズをとってみたり、玄関の扉を閉めたと思ったら突然勢いよく開けて私が飛び出してびっくりなんてこともした。でも彼は吠える。とにかく吠えるのだ。アホなんだこいつは。

ある日の夕暮れ、帰宅するとまた彼が吠えてきた。もういい加減慣れたもので、雀のさえずりと同じような心地よさを感じる。一句詠めと言われたらきっと詠める。ここ最近になってくると、彼と意思疎通を図ろうという試みもなくなってきており、一瞥もくれないことが多い。その日もそうしようと思ったらば、視界の端に見慣れた赤いものが映り込んだ。はて、と振り向くと、あのアホの足下に私の靴が片方落ちている。それも、引っ越して早々外に出しておいたらいつの間にか片方だけなくなっていたお気に入りのやつ。結局見つからずに捨ててしまった、あの靴だ。「あ」と声に出し、急いで彼のお宅に向かった。

「ごめんください、後ろの石丸なんですが」

「はい、はい」

聞くと、ちょうど私が靴をなくした日あたり、散歩途中で落ちていたのをくわえてきたそうだ。一度家の方がリードを持ってらっしゃるのに遭遇したことがあるが、私の家とは真反対の方角から帰ってきていた。あのアホ――愛すべき彼は、とてとてと赤い靴をくわえて私がいる玄関先までやってきて、無言でそれを置いた。ひとことも吠えはしなかった。

お礼を言って家に戻るとき、また彼はやって来て、そして今度はいつものように吠えた。もう報せる必要はない。最後の挨拶のつもりだろうか。

「まったくお前はたいしたやつだよ。ありがとう」

赤い靴を片手に挙げて、彼にもお礼を言って家に入った。

これが3ヶ月目のある日の出来事である。

4ヶ月経つ今日に至りあのアホはひたすら私に向かって吠えるのをやめない。事ここに至って私は確信を抱いた。あの犬は頭が悪いのだ。